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11戸狩総会

2011/3/11(金)
東日本大震災の日

 2011年3月11日(金)は、多くの方々が犠牲になった「東日本大震災」の起きた日である。我がクラブは、この日から13日(日)までの予定で、恒例の「11戸狩総会」を開催することになっていた。

 初日の朝から参加したメンバーは、前田・深井・本田・持田の4名であり、後からお昼頃にゲレンデに着いた服部(父)の計5名である。

 昼食を終えて、午後は前田さんを講師としての講習を受けていた。ちょうどペガサスゲレンデ五本松コースのお地蔵さんの向かい側の辺りに止まって前田講師の話を聞いているときであった。

 2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒が「東日本大震災」の公式発生時間のようである。若い誰かが「地震かな?」とつぶやいた。感覚の鈍った私などは気付かない程度だった。コース脇の雑木林が揺れているので、地震とわかったが、スキーを履いて雪の上に立っている私などにはそれほどの大地震とは思わない程度だった。

 しかし、リフトは止まってしまって動かない。しばらく待てば動くだろうと麓の「星降るレストラン」に入って、様子を見ることにした。そこにはテレビもなかったから、東北地方でまさに今大惨事が起きていることなど、そこにいる誰もが知らなくて、いつも通りの楽しい休憩時間であった。

 16時近くなってもリフトは動こうとせず、16:30の帰バスも迫っていたので、「今日は、もうしまおう。明日滑ればいいや!」という感じで、帰バスに乗った。運転する「リヴァティーみなみ」のススムさんが「東北地方が大変なことになっているよ」と暗い顔で言った。

 宿舎に帰って、部屋に入って、着替えながらテレビを付けて、驚愕の映像に凍り付いた。繰り返し繰り返し流される津波の映像に「これはただ事ではない」という思いに沈んだ。東北地方の被害はいかばかりかと胸が痛んだが、しかし、その頃首都圏でも帰宅困難の大パニックが起きていたことは戸狩では知らなかった。

 テレビを観ながら夕食を食べて、東北地方の惨状に心を痛めたが、まだ遠い所のことのような気がしていた。 眠りに就いて夜中、突然の建物全体を揺さぶる震動ときしみ音に飛び起きた。

 「栄村大震災」ともいわれる「長野県北部地震」は、2011年3月12日3時59分15秒に発生したとされる。長野県下水内郡栄村は、戸狩温泉の隣村である。震源の栄村で震度6強であるから約20kmほど離れた戸狩温泉でもほぼそのくらいの震度であったろう。私はこれほどの大きな震度を経験したことがない。布団をはねのけて、立ち上がって、蛍光灯のスイッチを引っ張った。壁にへばりついて、震動に耐えた。長かった。

 揺れが収まって、廊下の向かい側の前田さんがいる部屋に行った。他の人たちも、そこに集まってきた。テレビを付けた。地震情報が流れていた。テレビを観ながら、昨日の東北の大地震に重ねて、この長野でも起きたことへの不安が迫ってきた。

 みな押し黙ってテレビを観ている内に、5時過ぎ頃、前田さんの携帯に新井会長から電話がかかってきた。「早朝出発のためにみんな一応坂戸に集まったんですが、こっちは大変なことになっていて、とてもスキーに行ける状況じゃないんで、今年の戸狩総会は中止と決定します。戸狩に行っている人たちも、気をつけて帰ってきてください」という連絡だった。そうか、そんなに大変なのか、もしかしたら上信越道なんかも通行止めになっているかもしれない。早く帰らなければ、大変なことになる。不安が高まってきた。

 ススムさんに総会中止をお願いして、ススムさんも「この状況じゃ仕方ないよね」と承諾して下さって、朝食を早くしてもらって、7時過ぎには、車で帰途に就いた。上信越道が通行止めになっていれば、下道を通って、何時間かかるかわからないけど、とにかくウチに帰らなければという悲壮な覚悟の出発だった。

 豊田飯山インターは、平常通りだった。どこまで行けるかわからないけど、行けるところまで高速で行こうとガラガラの高速道路を飛ばしていると、あっという間に横川SAに着いてしまった。なんのトラブルもなくて、あれどうなっているのかなと不思議な感じだった。ここで、前田さん達の車と別れた。

 昼食を食べに寄った三芳SAでお土産代わりにパンをたくさん買い込んだ。ウチでは食べ物に困っているかもしれないと思ったわけだが、実際にはそんなことはなかった。それより、この時の失敗は、帰り際にガソリンスタンドに寄って満タンにして帰るべきであった。燃費のいいハイブリッド・エスティマに乗っていたこの時の私は、3分の2くらいを消費してしまった車にガソリンを補充せずに帰ってしまった。それから、約一ヶ月くらいガソリンの補充できない日が続くとは思いもよらなかった。

 ほとんど渋滞にも遭わずにお昼過ぎにウチに帰ると、もう外に家を構えているムスメとムスコが実家帰りをしていて、それぞれに大変思いをして実家に帰ってきた苦労話を聞いた。その後に続く、しばらくの困難生活は、誰しもであろう。

 以下の写真は、初めの3枚は3月11日(日)の12:00頃、私が頂上について、とりあえず撮ったもの、終わりの3枚は16:00頃みなみに帰ってきて、部屋の窓から撮ったもの。歴史的な日に撮った写真はこの6枚だけである。(服部 次郎)


(2014/1/10 UP)



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